だから、お釈迦様は、「物欲を棄てなさい」とよく言われたんですね。
で、物欲の方を先行したわけですよ、霊的なものよりも。
で、私は霊的知識よりは、物的知識の方がもっと重要だと想う、と言う人が多いわけです。
どうです。物的知識と霊的知識と、どちらが本物で、どちらが重要でしょうか。
あなた方は、色々の本を読んで博識と言いますかな、色々の本や文献を読んでたくさんの知識を得ても、その知識はね、外的知識なるものは死んでしまえば終わりなんです。肉に死んでしまえば、消極ですから。
すなわち霊的なものは永遠ですから、不滅ですから、死ぬことはないですね。終わることはないんですよ。霊には初めがありませんし、終わることがありませんから。
で、それは永遠なるものとして、我々の心の中にちゃあんと残るんですね。残るんですよ。
で、皆さん方はその「不滅の霊」と言うことは、どういう意味かと言うと、霊的なものには終わりがないという意味なんです。物質的なものには終わりがあります。だから、終わりがある世界のことを「無常界」と言いますし、霊的なものを「常在」と「久遠」と呼んでいるんですね。永遠と呼んでいるんですよ。
霊は永遠ですけれども、物質は永遠ではないですね。この世のものには、終わりが定められているんです。終わることに、死ぬことに定められているんですね」
氷ってものは、もう死に初めています。(コップを手に取って振る)
姿形、崩れ始めてますね。氷と言う姿形がなくなっても、氷を作っている本質はなくなるんでしょうか。無くなりませんよね。
で、私たちの肉体も年月がたっておりますと、崩れ去ります。年を取るとね。
老年と言いまして、結果は年を取りますけれども、原因は年を取りますでしょうか?
生命が歳を取るということがありますでしょうか? ないですね。
※お釈迦様の半生―
だから、お釈迦様は「生・老・病・死」という、年を取る恐怖という老。人間はなぜ年を取るんだろうかということに、非常にお悩みになったんですね。自分のお母さんやお父さんが歳をとっていくのを見て、で最終的にはみじめな死を招くと。死があるんだと。あるいは人間は病気になるんだと。あるいは、生きる苦しみというのがあるんだと。4つの苦しみというものを抱えていたわけですね。「生・老・病・死」という、四苦と言われていますね。
その4つの答えを出すために、「なぜ、人間は生きる恐怖があるか」、「年寄る恐怖があるか」、「病む恐怖があるか」、「死ぬ恐怖があるのか」、それを持って人間と言うものは、存在してるんだろうかということの答えが出せませんでしたので、今度は山の中に、王子という位、・・インドのある小さな城の王子だったわけですね。カピラと言うお城がありまして、そこの王子だったんですよ。えー、そこの王子である者が、年老いてるもの、病気になるもの、そしてお互いの日常生活の苦しみというものを見まして、それを非常にお嘆きになり、悩みになって、何か答えを見出せる、死なないようにする方法、病いにかからない方法、年を取らない方法はないものだろうかと、いうことで修行に出られたんですね。
修行に出られまして、山の中に5年間籠りまして、一生懸命その答えを、こう自ら見出そうと、一生懸命、5年間の禅とか瞑想とかやりますと、何に最終的にぶつかったかと言うと、原因という「神」におぶつかりになったんですね。
「生命」には生きる恐怖もないんだと、年寄る恐怖もないんだと。病む恐怖もないんだと。そして、死ぬ恐怖もないんだと。
生命は生きる恐怖もないし、生命は病気にならない、ということをお悟りになった。ね
四つの答えが出た時、お釈迦様は「仏陀」となられたんですね。仏陀となられた。
ブッダですよ、仏陀です。
今、その話をしますとね、面白いことに、ここにちゃんとその方がお見えになっていますね。
2013年05月22日
霊的知識と物的知識.1
たとえば、今生、この世で東大を出ましても、次生まれてくる時、東大生としては生まれてきません。生まれてから、すぐ東大生でしょうか。そうはいきませんね。
この世で学んだ物的知識と言うものは、みんな☓(ペケ)なんです。全部終わります。終わりがあります。霊的知識に終わりがありますでしょうか?霊的知識に終わりがありますでしょうか。
霊的なものには終わりがありませんので、積極なんですね。(板書)
だから、学問には消極的学問と積極的学問があるんですね。
学問と言うのは、学びですから。で、世の中は今、消極的なものを一切学んでいるわけですよ。
霊的なものは永遠ですから、積極的な学びなんですね。で、積極的な教育なんです。
で、霊的なものは永遠ですから、皆さん知花に会ったことで、ここで聴いたお話は、次生まれてくる時に霊的進化ですから、聴いてここで理解できた分だけ、次生まれ持ってくるんですね。
霊的知識は来世、次生まれてくる時も、それを抱えて生まれてきます。持っています。
それは、ちゃんと皆さんの心というコンピュータにインプットされて生まれてきますね。
この外的知識と言うものは、この世限りで、一生で全部終わってしまう。しかし、霊的知識はどこかで聞いたような覚えがある、次生まれてくる時に。あ、なかなか知花は想いださないかもしれないけど、これは過去世において私はそんな話を聴いた覚えがあるぞと。いうようなことで、ちゃんと記憶されて生まれてくるんですね。
だから、親でこの世的な年齢が親でも、年は上でも、下の子に霊的に優れた子供がいるんですね。それは、過去において霊的な知識を学んだ方なんですね。
だから、年齢、性別、一切関係がないんです。
子どもが親よりも霊的には高い人も多いんですね。
今現在、本当に親よりも子供の方、若い方に霊的な知識を持ってる人が多いですね。
今の、30代とか20代とか、30代のね若い魂は、霊的には優れた魂が今生まれてきています。
最後の21世紀の立て直しのために、ちゃんと準備されているんですね。準備されているんです。
で、皆さん方、今の50代60代、悲観する必要はありません。ここでお話を聴いて理解が出来るということは、自分もそうなんだなと。今言いましたように、年齢には差はございませんから。
じゃ、私は30代の若い魂には劣っているのかという、悲観的にならないでください。
全部が全部、そうだという意味じゃないんです。だいたい、総計して計算して、そうだということが言えると。皆さん、次ここで学んだ霊的知識というものは、次生まれてくる時、忘れて何も存在しないで生まれてくると想いますか?持って生まれてくると想いますか?
持って生まれてきますね。
次の世代の、来世の指導者になるかもしれない、皆さんはね。
指導者に、霊的指導者になるかもしれない。
だから、世の中には物的指導者という者と、霊的指導者というのが存在しているわけですね。
この世で、霊的指導者として今存在している人は、過去世において霊的なものを徹底して学んだもの、学んで理解のできた人、その分だけ理解力を持って生まれて参りますので、どこかでちょっと刺激を与えますと、すぐ芽生えますね。
すぐ記憶が甦ってくるんですね。記憶が甦ってくる、本能的に。
これは、なぜ甦ってくるかと言うと、積極だからです、永遠だからです。
これを、霊的進化とふつう言いますね。霊性の進化と言いますけれども、今、皆さんここでお話を聴いたり、学んだりすることは、皆さんにとっては霊性の進化ですよ。
で、進化の過程を学んでいるわけですね、今皆さん方は。
偶然に集まるんじゃないんですよ。集まるべきものだけが集まるんですよ。皆さん、偶然にこういう所に座ってらっしゃると想いますか? それは、偶然と言うものはありませんね。
偶然と言うのはないんです。集まるべきにして、必然なんですね。
集まって、お話を聴いてらっしゃると想うんですね。だから、私の周囲に来る集ってくるもので、偶然に集まって来るものという者はいません。
非常に面白いことに、一生懸命、ある途中までは一生懸命やってきます。途中で落伍します、がっとなって逆に私を非難に回る人までも出てきますね。
もう今生は、彼にとって彼女にとっては、今生はこれで終わるだろうと。おそらくそれ以上は、霊的な進化はないだろうと。霊的知識を持つことはないだろうと、想いますね。
それは、もう学校が嫌になったんですよ。霊的なものを学ぶことが嫌になった。それよりは、物質的な外念の知識が欲しくなったわけですね。
この世で学んだ物的知識と言うものは、みんな☓(ペケ)なんです。全部終わります。終わりがあります。霊的知識に終わりがありますでしょうか?霊的知識に終わりがありますでしょうか。
霊的なものには終わりがありませんので、積極なんですね。(板書)
だから、学問には消極的学問と積極的学問があるんですね。
学問と言うのは、学びですから。で、世の中は今、消極的なものを一切学んでいるわけですよ。
霊的なものは永遠ですから、積極的な学びなんですね。で、積極的な教育なんです。
で、霊的なものは永遠ですから、皆さん知花に会ったことで、ここで聴いたお話は、次生まれてくる時に霊的進化ですから、聴いてここで理解できた分だけ、次生まれ持ってくるんですね。
霊的知識は来世、次生まれてくる時も、それを抱えて生まれてきます。持っています。
それは、ちゃんと皆さんの心というコンピュータにインプットされて生まれてきますね。
この外的知識と言うものは、この世限りで、一生で全部終わってしまう。しかし、霊的知識はどこかで聞いたような覚えがある、次生まれてくる時に。あ、なかなか知花は想いださないかもしれないけど、これは過去世において私はそんな話を聴いた覚えがあるぞと。いうようなことで、ちゃんと記憶されて生まれてくるんですね。
だから、親でこの世的な年齢が親でも、年は上でも、下の子に霊的に優れた子供がいるんですね。それは、過去において霊的な知識を学んだ方なんですね。
だから、年齢、性別、一切関係がないんです。
子どもが親よりも霊的には高い人も多いんですね。
今現在、本当に親よりも子供の方、若い方に霊的な知識を持ってる人が多いですね。
今の、30代とか20代とか、30代のね若い魂は、霊的には優れた魂が今生まれてきています。
最後の21世紀の立て直しのために、ちゃんと準備されているんですね。準備されているんです。
で、皆さん方、今の50代60代、悲観する必要はありません。ここでお話を聴いて理解が出来るということは、自分もそうなんだなと。今言いましたように、年齢には差はございませんから。
じゃ、私は30代の若い魂には劣っているのかという、悲観的にならないでください。
全部が全部、そうだという意味じゃないんです。だいたい、総計して計算して、そうだということが言えると。皆さん、次ここで学んだ霊的知識というものは、次生まれてくる時、忘れて何も存在しないで生まれてくると想いますか?持って生まれてくると想いますか?
持って生まれてきますね。
次の世代の、来世の指導者になるかもしれない、皆さんはね。
指導者に、霊的指導者になるかもしれない。
だから、世の中には物的指導者という者と、霊的指導者というのが存在しているわけですね。
この世で、霊的指導者として今存在している人は、過去世において霊的なものを徹底して学んだもの、学んで理解のできた人、その分だけ理解力を持って生まれて参りますので、どこかでちょっと刺激を与えますと、すぐ芽生えますね。
すぐ記憶が甦ってくるんですね。記憶が甦ってくる、本能的に。
これは、なぜ甦ってくるかと言うと、積極だからです、永遠だからです。
これを、霊的進化とふつう言いますね。霊性の進化と言いますけれども、今、皆さんここでお話を聴いたり、学んだりすることは、皆さんにとっては霊性の進化ですよ。
で、進化の過程を学んでいるわけですね、今皆さん方は。
偶然に集まるんじゃないんですよ。集まるべきものだけが集まるんですよ。皆さん、偶然にこういう所に座ってらっしゃると想いますか? それは、偶然と言うものはありませんね。
偶然と言うのはないんです。集まるべきにして、必然なんですね。
集まって、お話を聴いてらっしゃると想うんですね。だから、私の周囲に来る集ってくるもので、偶然に集まって来るものという者はいません。
非常に面白いことに、一生懸命、ある途中までは一生懸命やってきます。途中で落伍します、がっとなって逆に私を非難に回る人までも出てきますね。
もう今生は、彼にとって彼女にとっては、今生はこれで終わるだろうと。おそらくそれ以上は、霊的な進化はないだろうと。霊的知識を持つことはないだろうと、想いますね。
それは、もう学校が嫌になったんですよ。霊的なものを学ぶことが嫌になった。それよりは、物質的な外念の知識が欲しくなったわけですね。
2013年05月20日
2013年04月01日
知花敏彦氏の講話DVD・CD
知花敏彦氏の講話DVD・CDを聴いてみたい方、欲しい方は
SOLUZという会社が扱っていますので、各地の知花敏彦氏
ビデオ勉強会・ビデオ上映会などでお問い合わせください。
講話によっては、DVD化・CD化されていないものもあります。
詳しくは、お尋ねください。
SOLUZという会社が扱っていますので、各地の知花敏彦氏
ビデオ勉強会・ビデオ上映会などでお問い合わせください。
講話によっては、DVD化・CD化されていないものもあります。
詳しくは、お尋ねください。
2013年03月04日
B42 神我到達 1991.7.19
おすすめCDより
自分は神我に到達したという人は非常に多いんですけれども、なかなか神我に到達した人は少ないということを知らねばなりません。
神我とは天、神、神理。天に生きるもの、神に生きるもの。それを神我到達と申します。
神我の世界は天国でございます。この肉を持ちながらにして、天に生きるもの。人間は自我に生きています。
自我に生きていながら、自分はもう神我に到達しているんだという錯覚を起こしやすいと。いうことを気をつけていただきたい。
自我意識は地で、神我意識は天です。神我意識は神意識、キリスト意識です。
神の意識で生きてたなら、神我意識。神我に到達しています。
本来の自分は内なる我。天に帰るとは神我に還ること。
自我の我から、神我の我に帰ること。
父の御許に還ると。放蕩息子のごとくなれと・・
内なる自己を常に意識し、努めて努力する。「我生命なり、我神なり」と。
神を、肉という自我を通して顕現せしめることを神我顕現という。
また、少しでもこの神我と言うものをのぞき見したならば、あたかも自分が神に到達したような錯覚を起こして、自我の意識で生きていながら「私は神我到達したものであると」というようなことを言いふらしたり、思ったりすることは、傲慢といいます。決して神我に到達しておりません。
神我に到達しているか、してないかというウソがつけないということがあります。神我に到達してるものであれば、大調和・大愛そのものなんです。もう愛以外に何も知らない、調和以外に何も知らないという日常生活をしていたならば、神我到達です。
周囲の人の悪口を言いながら、憎みながら、そしりながら、「私は神我到達したものであると」いうならば、ウソつきであると、ニセモノであると、はっきり見抜いて結構です。
皆さんの個我は何のためにあるかというと、神我顕現のためにあります。自我顕現のためではありません。自我顕現のことを、自己顕示欲と言ってます。自己を表現しようとしてる、すなわち自我を表現です。
謙虚と言うのは、神我の世界には顕示欲はないんです。あるがままに神我の世界を表現するために、この個我はあるのです。
よく中途半端な人間は、少し神理をなまかじりしたら、もう自分は神我に生きている、神我に到達しているというような錯覚を起こして、それを口外する人がございます。それはいけません。何の意味もないんですね。
私達は常に内なる我という、神我を意識して、日常生活の中に少しでも現すように努力することが大切であって、自我のままで生涯終わってはなりません。わかりますね
自分は神我に到達したという人は非常に多いんですけれども、なかなか神我に到達した人は少ないということを知らねばなりません。
神我とは天、神、神理。天に生きるもの、神に生きるもの。それを神我到達と申します。
神我の世界は天国でございます。この肉を持ちながらにして、天に生きるもの。人間は自我に生きています。
自我に生きていながら、自分はもう神我に到達しているんだという錯覚を起こしやすいと。いうことを気をつけていただきたい。
自我意識は地で、神我意識は天です。神我意識は神意識、キリスト意識です。
神の意識で生きてたなら、神我意識。神我に到達しています。
本来の自分は内なる我。天に帰るとは神我に還ること。
自我の我から、神我の我に帰ること。
父の御許に還ると。放蕩息子のごとくなれと・・
内なる自己を常に意識し、努めて努力する。「我生命なり、我神なり」と。
神を、肉という自我を通して顕現せしめることを神我顕現という。
また、少しでもこの神我と言うものをのぞき見したならば、あたかも自分が神に到達したような錯覚を起こして、自我の意識で生きていながら「私は神我到達したものであると」というようなことを言いふらしたり、思ったりすることは、傲慢といいます。決して神我に到達しておりません。
神我に到達しているか、してないかというウソがつけないということがあります。神我に到達してるものであれば、大調和・大愛そのものなんです。もう愛以外に何も知らない、調和以外に何も知らないという日常生活をしていたならば、神我到達です。
周囲の人の悪口を言いながら、憎みながら、そしりながら、「私は神我到達したものであると」いうならば、ウソつきであると、ニセモノであると、はっきり見抜いて結構です。
皆さんの個我は何のためにあるかというと、神我顕現のためにあります。自我顕現のためではありません。自我顕現のことを、自己顕示欲と言ってます。自己を表現しようとしてる、すなわち自我を表現です。
謙虚と言うのは、神我の世界には顕示欲はないんです。あるがままに神我の世界を表現するために、この個我はあるのです。
よく中途半端な人間は、少し神理をなまかじりしたら、もう自分は神我に生きている、神我に到達しているというような錯覚を起こして、それを口外する人がございます。それはいけません。何の意味もないんですね。
私達は常に内なる我という、神我を意識して、日常生活の中に少しでも現すように努力することが大切であって、自我のままで生涯終わってはなりません。わかりますね
2013年02月12日
おすすめCD講話より
カルマの克服・・・ 全て起こることは必然的で、カルマが要因。
そのカルマを、愛で刈り取ることが大切。
最高の対処は、目覚めることで全て超克する。
天気・・・ 天気とは天の気で、すなわち元気。気の素。
生命の気。
体内で天変地異がおこると、気が乱れ病気になる。
時間 空間 距離は存在しない・・・テレポートは移動してるのではなく、
初めから居たところにおるのである
無限の存在に時間、空間、距離はない

