26:34
もう本当に、あまりにも話を聞くのに慣れっこになってしまってると、思ったりもするんですけれども、
もう慣れっこであるならばお休みにしましょうか、お話しは?
お休みにした方がいい? 続けた方がいい?
あまりにも毎日同じお話しを聞きすぎてるんじゃないかなと思うんですよ。もう何年間かお休みにしますか。やってみると、どうだと思います? 無限という意識に目覚めそうですか、それとも落ち込んでいきそうですか?
もうやめた方がいいかもしれない。
その時、イエスキリストも同じことを言った。「私がいない方がいいかもしれない」と言ったことがあります。
私もそう言いたいんですよ。いない方がいいなら、いない状態にもすぐにも出来るわけです。
皆さんも、自分が無限になれないのに飽き飽きしてるんじゃないですか? 私も無限に帰らないのに飽き飽きしてるんです、はっきり言って。
本当に毎日朝晩話す必要があるのか、あるいは一か月に一回、二ヶ月に一回、刺激することでいいのか…皆さんはどう思います。
毎日刺激されてでさえも、こんなに難しいわけですから。そのままほっといたんじゃ、また個人として仮相としてそのまま溺れていくんじゃないですか。
できそう? 自分でやるという人なら来なくて結構ですよ。
ここから離れていった連中で、無限という天に帰れそうな人が一人もいますか? みんな落伍していったんじゃないですか。だから、招かれしものは多いけれど、選ばれし者は少ないんじゃないですか。
たくさん招かれて聞きましたよ、お話しを。それは,岩の上にまかれた種というのは、頭に種をまいて帰っただけではありませんか。一時的に感動、感銘してわーっと騒いで、わーっと消えたんじゃないですか。もう来なくなってますよ。
分かったような錯覚を起こして、感情的にわーっとやる人は、全部ここから離れていったんじゃないですか。分かっているのか分からないような人だけ残ってますよ。それは頭の中で考えたんじゃなくて、心の中で考えたからですよ。深いところで物事を考えてる。
頭で考えてる人は、みんな感情的じゃありませんか。「先生、あなたから一生離れません」、すぐ離れますよ。この人着いてくるのかな?という人がちょこちょこ顔を出したり着いてきてる者だけが残ってる。
分かってるようで分からん様な人だけが残ってる、これが本来の姿です。
大切なことは知識ではなくて、あなたが無限そのものであることが大切ではないですか?
無限を,実感することだけが大切ではないですか。
それ以上のことは、ないんでしょ。
2022年05月29日
2020年12月21日
A267 賢者と偶者
31;55
今ここで、色々の方が真理の話を聞きましたけれども、聞いてる間は感激して、感動して涙を流して、ああそうだと言ったけれども、それは頭の次元で受け取って魂の奥深くに入ってなかったがゆえに、ここを離れている人が多いんですね。
これは、岩の上に蒔かれた真理の種です。もう今生は、彼らは無理だろうと。根っこがありませんから、真我という根が無いんですね。上辺の知識の段階で、岩の上に蒔かれて、ぱーっと咲いて枯れてしまう。
あるいは、雑草の中に蒔かれた種のようなものであると。あっちから、こう言われ、こっちから言われ、ああでもない、そうでもないと混乱状態。
あなた方の魂が、そこに真我という根を下ろしていたのならば、どこから動揺されても、突っつかれても動かないと思います。
それは山の中に咲く、野のユリの如しと。踏まれても踏まれても根強く生きる、野のユリの如しと言われているものなんですね。
色々の雑念がありますね。色々の雑談が入りますね。そんなことにも影響を受けない。雑事がありますね、色々のこと。これでも、真我に根を下ろしていたとすると、世の雑事や雑念に影響を受けますか? 受けませんね。
これを、岩の上に建てられた教会。それを深い信仰と言いますね。魂の底からそれが解るようになってる人は、こういう世の中の幻や雑事に、雑念に振り回される、動揺することはない。
だから、たくさんの種蒔きはしたけれど、途中で枯れてしまうものが多いんですね、その真理の種も。
世の中には、いくら種を蒔いても蒔いても、芽生えるものはその中からいくつしかないんです。真理の話は聞くには聞いたけれども、自分のものと本当にするには、いくつしか芽が生えてこないんですね。
本当に神我到達にまで持っていくためには、相当の努力と忍耐が必要であるということが言えます。
遊び半分、生半可では出来ませんよと、いつも言ってますね。
今ここで、色々の方が真理の話を聞きましたけれども、聞いてる間は感激して、感動して涙を流して、ああそうだと言ったけれども、それは頭の次元で受け取って魂の奥深くに入ってなかったがゆえに、ここを離れている人が多いんですね。
これは、岩の上に蒔かれた真理の種です。もう今生は、彼らは無理だろうと。根っこがありませんから、真我という根が無いんですね。上辺の知識の段階で、岩の上に蒔かれて、ぱーっと咲いて枯れてしまう。
あるいは、雑草の中に蒔かれた種のようなものであると。あっちから、こう言われ、こっちから言われ、ああでもない、そうでもないと混乱状態。
あなた方の魂が、そこに真我という根を下ろしていたのならば、どこから動揺されても、突っつかれても動かないと思います。
それは山の中に咲く、野のユリの如しと。踏まれても踏まれても根強く生きる、野のユリの如しと言われているものなんですね。
色々の雑念がありますね。色々の雑談が入りますね。そんなことにも影響を受けない。雑事がありますね、色々のこと。これでも、真我に根を下ろしていたとすると、世の雑事や雑念に影響を受けますか? 受けませんね。
これを、岩の上に建てられた教会。それを深い信仰と言いますね。魂の底からそれが解るようになってる人は、こういう世の中の幻や雑事に、雑念に振り回される、動揺することはない。
だから、たくさんの種蒔きはしたけれど、途中で枯れてしまうものが多いんですね、その真理の種も。
世の中には、いくら種を蒔いても蒔いても、芽生えるものはその中からいくつしかないんです。真理の話は聞くには聞いたけれども、自分のものと本当にするには、いくつしか芽が生えてこないんですね。
本当に神我到達にまで持っていくためには、相当の努力と忍耐が必要であるということが言えます。
遊び半分、生半可では出来ませんよと、いつも言ってますね。
2020年10月20日
A262 無我とは何か
53;32
このような重要な話は、あなた方まれにしか聞けませんよ。
天国に返すとか成仏するとか、みんな本当だったんですか?何かの宗教で。
迷ってる者とは知らない者なんですよ。己を知らない者。
宇宙に遍満する霊と水があなたなんです。
もう、これ以上言う必要があるんだろうか。本来はないんですよ。
しかし、真理というものは何回も何回もの繰り返しで、あなた方を刺激するしかない。実感が沸くまで。
ここから一歩離れると又、形を自分と見て生きてますよ。可哀想に。落伍していくんですよ。
一時的に、ここで話を聴いて感動して涙を流します。
それは、自分が宇宙だ、普遍だということに定着しなかったので、また個我という小さな自我に帰っていくものがいっぱいいるということです。これは道端に植えられた種ですよ。あるいは石の上に植えられた種ですよ。
あるいはここで話を聴いて感銘します。なーるほど、そうだと。しかし、俗世と言う自分の家に帰りますと、周囲には自我人間しかおりませんので、それにまみれて、おされて同じ自我人間になる。それは雑草の中に播かれた種なんですよ。周囲の自我人間は雑草です。
ここで、あなたは肉我でも形でもない、あなたは普遍的存在ですよと、聞くには聞いたけれども、実りあるものにはならなかった。
実るとは宇宙意識・普遍意識になったことですよ。
ここで聴いたからと言って、個人意識がすぐなくなって、普遍意識・宇宙意識になってるものがいますか。
今ある日突然、知花が皆さんの前から消えたとすると、自信をもって自分は宇宙意識にできるという人がおりますか?
今、刺激してるんですよ。あなた方がそういう状態になるまでは、刺激し続けなければならない。だから朝晩刺激してるんですよ。
もう先生の話なんか毎日同じ話しかしないから行く必要はないわとか、あたかも自我意識で悟ったような錯覚を起こしているものがいっぱいいるんですよ。そういう人いるでしょ。
このような重要な話は、あなた方まれにしか聞けませんよ。
天国に返すとか成仏するとか、みんな本当だったんですか?何かの宗教で。
迷ってる者とは知らない者なんですよ。己を知らない者。
宇宙に遍満する霊と水があなたなんです。
もう、これ以上言う必要があるんだろうか。本来はないんですよ。
しかし、真理というものは何回も何回もの繰り返しで、あなた方を刺激するしかない。実感が沸くまで。
ここから一歩離れると又、形を自分と見て生きてますよ。可哀想に。落伍していくんですよ。
一時的に、ここで話を聴いて感動して涙を流します。
それは、自分が宇宙だ、普遍だということに定着しなかったので、また個我という小さな自我に帰っていくものがいっぱいいるということです。これは道端に植えられた種ですよ。あるいは石の上に植えられた種ですよ。
あるいはここで話を聴いて感銘します。なーるほど、そうだと。しかし、俗世と言う自分の家に帰りますと、周囲には自我人間しかおりませんので、それにまみれて、おされて同じ自我人間になる。それは雑草の中に播かれた種なんですよ。周囲の自我人間は雑草です。
ここで、あなたは肉我でも形でもない、あなたは普遍的存在ですよと、聞くには聞いたけれども、実りあるものにはならなかった。
実るとは宇宙意識・普遍意識になったことですよ。
ここで聴いたからと言って、個人意識がすぐなくなって、普遍意識・宇宙意識になってるものがいますか。
今ある日突然、知花が皆さんの前から消えたとすると、自信をもって自分は宇宙意識にできるという人がおりますか?
今、刺激してるんですよ。あなた方がそういう状態になるまでは、刺激し続けなければならない。だから朝晩刺激してるんですよ。
もう先生の話なんか毎日同じ話しかしないから行く必要はないわとか、あたかも自我意識で悟ったような錯覚を起こしているものがいっぱいいるんですよ。そういう人いるでしょ。
2019年12月26日
A192 キリストを信じる者は救われる
それは、真理の種まきの例えでイエス様は申し上げられました。
ここで真理の種は播かれましたけれど、皆さんは帰りますと周囲に雑草がいっぱいあります。雑念です。自我人間が家庭でも、周囲にいっぱいおります。その中から自分一人だけ花を咲かすことは厳しいことだと思います。その雑念の中から神への信、神を理解した状態を保持することは非常に難しいことは私達も知っております。しかし、咲いた暁は野の中に咲く白いユリの如く満開いたします。それは雑草の中に播かれた種の如しなんです。
あるいは岩の上に播かれた種の如しと言うのは、一時的にこの知花の話を聴いて感動して涙を流す。岩の上に播かれていたもんですから根っこがなくて、一挙に咲いて一挙に終わる。その信仰はむなしいものとなって終わってしまう。
肥沃深い所に播かれた真理の種というのは、徐々にでありスピードも速くないですけれど、日々の生活の中に信仰心を高めて茎を太くして綺麗な花を咲かす状態。年月をかけて神への信を絶対に忘れたことのない人のことなんです。
今、自分は何に例えることができるでしょうか?と自分を見ることが出来ます。
2018年03月12日
疑問 A188
聴いてるときは涙を流して、もうこれは最高だ!知花先生にどこまでもついて行きますと、私をつかまえて泣いたものは、一人も残っていない。
この者は危ないけれど、ついて行くのかな?と、解っているのか解らないようなポカンと、そういうものはいつまでもついてきている。
一時的な感動で、それは岩の上に撒かれた種なんです。一度に花が咲いて、根っこが出てしまって、水を吸収してませんので枯れてしまう。深い信仰を持っていません。
聴いているのか聞いてないのか、分かるようで分からんようなものだけが、まだまだ残っていますね。
あるいは、ある程度理解が出来たけれど、周囲に雑草が、雑念が多すぎて、、
その雑念とは、あの講演会、このセミナー、あのフォーラム、、こっちに行けばこっちに合わそうとするし、あそこに行けばあそこに合わそうとするし、雑草にまみれて後は何がなんやら判断がつかない。何に自分というもののポイントを合わせていいか解らない。
これは、雑草の上にまかれた種なんです。
この者は危ないけれど、ついて行くのかな?と、解っているのか解らないようなポカンと、そういうものはいつまでもついてきている。
一時的な感動で、それは岩の上に撒かれた種なんです。一度に花が咲いて、根っこが出てしまって、水を吸収してませんので枯れてしまう。深い信仰を持っていません。
聴いているのか聞いてないのか、分かるようで分からんようなものだけが、まだまだ残っていますね。
あるいは、ある程度理解が出来たけれど、周囲に雑草が、雑念が多すぎて、、
その雑念とは、あの講演会、このセミナー、あのフォーラム、、こっちに行けばこっちに合わそうとするし、あそこに行けばあそこに合わそうとするし、雑草にまみれて後は何がなんやら判断がつかない。何に自分というもののポイントを合わせていいか解らない。
これは、雑草の上にまかれた種なんです。

