2020年01月25日

B236 キリスト

50:30
私は、それを聞く耳を持たない、受け入れることのできない者には無言を通します。誰も彼もに、どこかに行って、こういう真理を話したことは一度もありません。
聞いてくれる団体、受け入れてくれる、聞く耳を持つ者の前でお話はします。それ以外にお話をしません。それ以外は沈黙を守ります。

皆さん方も、この人にも知ってほしい、あの人にも知ってほしいと。あなたは、ここまで物が詰まっているのに、物をあげることできますか。三次元的なもので、ここ喉までいっぱいしてるのに、これ美味しいですよと突っ込むことできますか? できませんよ。吐き出すだけですよ。
無駄ですよ、そんな人間に真理は必要としません。まだ、時機到来がないということです。この世のものに満足してるものに、真理を押し込むことは不可能ということです。
腹が減った時、物は与えるべきです。この世のものにいっぱい首まで浸かっている人間に、真理を説いたって豚に真珠のようなものなんです。
だから、満たされしものは災いだと。この世に富める者、ラクダが針の穴通るが如しと。
この世に富んでいるということは、迷いに富んでいるということです。自我意識が強烈だということですよ。
この世に満足している人間は、自我に満足しているということですよ。地獄に満足しているという人ですよ。
この世が嫌になっている人間こそ救うべきです。この世が嫌になっている人間は救われます。

だから、だいたいは熟した魂というのは、この世の物質的なもので満たされていません。心が満たされないんです。だから、心貧しき者よ幸いなりと言ってるのは、物質的なもので心が満たされてない人のことなんです。
だから、物質的なもので恵まれて、物質的なものに富んでいる、地位や名や財そういうものに満足している人には、真理は豚に真珠を与えるようなものなんです。
苦しき者よ幸いなり、貧しき者よ幸いなりと言うのは、その意味です。

2019年05月28日

A227 神我は調和 自我は不調和

言いたいことは一つしかありませんから、あの手この手でこう言ったら解ってくれるか、こう言ったら解ってくれるかと言ってるだけなんですよ。
一つしか真理はございませんので、毎日同じことを聞いてるようだけども、こう言ったら解ってくれるか、ああ言ったら解ってくれるか、方法を取ってるだけですよ。
例えでしか申し上げられませんからね、これは。普遍なるものを持ってきて説明するわけにいきませんから。
有限なら説明は出来ますけれども、無限なるもの説明は出来ますか? 無限を持ってきて説明が出来ますか? 
これが神ですよと。無限なるもの持ってこれますか。
悟るしかないですよね。
真理を説明できると言うならば、その人は真理を知ってる人ですか、知らない人ですか。
全く知らない人ですよね。これが真理だ、あれは真理ではないと言うならば、無限なる真理を有限化してしまいますから、もう真理ではございませんね。
だから、聖書も全部例えで書かれています。例えばこういうことでしょと。例えでしか教えられるものじゃない。
真理を見せてくれと言われたら、見せられますか?
あなたの悟りでもって、感じて見ることだもんね。

2019年05月01日

B217 自己実現

12の弟子の一人のお父さんがなくなった時、「親父がなくなりましたので、お暇を下さい。法事ごとをせねばなりませんから」とお暇を頂きに行った時、イエスは何と言われた? 死人は死人にて葬らせよと。
神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神であると、言われたはずですよ。
なのに、誰か死ぬと牧師を呼んできて、牧師は死人の管理人になってしまった。
「神は生きた者の神」。
こういう例えもあります。
ある時、お葬式の行列がありました。そして、ある娘っ子がお母さんが死んでおったわけです。葬式の、お墓への行く道の途中で、その娘が道端で傷ついてる鳩を見つけました。
その娘は、お母さんについていったんでしょうか、鳩の手当てをなさったんでしょうか?
どっちだと思いますか? 鳩の方を手当てなされました。
だから、例えで書いていますけども、皆さん方がいかに自らを理解してないか。

2019年03月07日

B216 霊エネルギー

聖書には、こう書いている。「見て信じるよりは、見ないで信じる者は幸いなり」と書いています。
これは、誤解です。間違って説いています。
「見えるものを信じる者よりは、見えないものを信じる者は幸いである」と。これが正しい聖書なんですけども、
「見て信じるよりは、見ないで信じる方は幸いである」と書いてあるんですよ。
これは誤解で、誤謬化されて、翻訳をするときに誤って書かれてます。
見える物を信じる人と、見えないものを信じる人と、どちらが幸いですか?

また、「洗礼」という言葉も非常に誤解されて書いています。洗う礼と書いてますね。
「洗霊」= 霊で洗う、エネルギーで洗うなんです。
光で洗い清めることを、洗霊を受けるということなんです。これも誤謬化されてますね。

聖書には、いくつか誤謬化されたものが表されています。それは、翻訳者が間違ったんだろうと。
だから、全て聖書の通りだと鵜呑みしては、、聖書を疑ってもいけませんけども、間違ってる分野を見抜くぐらいの能力を持ってもらいたい。
今まで、聖書は何回翻訳されたかということ。その翻訳者が真我で翻訳してるなら間違いないけども、自我の翻訳者が翻訳したんじゃ、間違いだらけになるのは当たり前ということです。

2019年02月08日

B216 霊エネルギー

最初から聖書は日本語であった訳ではないんです。
ヘブル語から、色々の言葉に直されて日本語まで翻訳されてますから、そこにはフィルターが幾つついてると思います?
3つも4つも、ついてるわけですよ。翻訳者の心が幾つも混ざってくるわけですよ。
だから、そのまま聖書に書いてる文字、全てが正しいと言ってはならない。
最初は正しかった。原版は正しいけども、今までの何千年の間に何回も書き換えられきてるということも、ご理解頂きたい。
その通りだと言ったら、じゃあ聖書は日本語で初めから存在したんですか?と、言って下さい。
翻訳するには、翻訳の意識が混ざってきませんか。
例えば、一つの聖書を100名に翻訳させたら、同じ翻訳になると思う?
100の聖書が出来上がると思いますよ。受け取り方が100人様々ですから。
それを、全くそのままというなら、盲信家、狂信家としか言いようがないですよ。

2019年02月02日

A216 霊的自覚

あと僅かの年月しか、この世の三次元的な時間からすると残されていない。
私がいつも言うのは、これはあなたが望もうが望むまいが、必ずそういう苦しい時代が来ますよ。その時からもがいても何にもなりませんよ。
早く聞いておけば良かった。それを知っておけば良かったと思った所で、もう遅い。

これは、例えを申し上げますと、10名の女に、、5名は真面目な女。5名は不真面目な女。
もうやがてお婿が登場するから、その間にランプを準備して待っておきなさいと言いつけられた。
しかし、怠け者の女は、どうせ今はこないと。ランプも掃除しない、油も入れてない。そして遊んでおった。
そして、5名の真面目な女は、ランプを準備して、油も入れて、ちゃんと磨いて待っておった。
ある時、突然お婿は参った。その5名の女は宴会に招かれたけども、怠け者の女は、お婿が来てから石油だ、いや掃除だ、としてる間に門は閉ざされてしまった。
これが、例え話のようだけど、今生来るんです。